そして、彼は目を覚ました。時間にしたら20分位だったかと思うが、彼が座禅をしていた周りの雪を溶かしてしまう程のエネルギーを体全身で味わい、まるで彼自身が熱湯そのものになったような感覚だった。その瞬間、彼は全てを知った。全ては繋がっているということを・・・・
今のチベットのラサの近くのラマ僧。彼は生まれてから人生について考え始め、様々な死別を垣間見る体験を通し、人間の生死について熟考する青年時代を過ごし、熱心な修行僧として、日々修行や瞑想を繰り返す日々を過ごしてきた。ラマ僧としての位も登り始め、彼の元には多くの僧や人々が訪れ彼の話を聞くようになっていった。若い頃の修行の日々から、人々に伝えるという役割を担う時間が多くなってきます。ちなみに、彼は純粋な意図「生と死を知ることから、自分を知る」というものを見付けていたため、彼の元に訪れる人々の中からも答えを見付けたいという想いがあったようで、相手と自分自身と対等に見ており、決して傲慢にはならなかった。純粋に自分自身の体験を表現として伝えていた。
50代の後半に近づいても彼は生きることと死ぬことへの答えを知りたいという飽くなき探求が続く一方で、ますます多くの人々が彼の元を訪れ、彼の時間は個人の時間から集合的な団体のための時間へと移行していくようでした。彼は自分の役目だと感じ、ためらいなく人々に自分の体験をシェアし続けました。ただ、自分が想うことを伝えるだけで、その人を変えようとは思っていません。ただ、ためらいなくシェアしている感じです。
しかし、彼は一環して自分の意図を貫きました。60代の後半になると、彼は今の役割を終えたような感覚を味わいます。ちょうど彼の立場も世代交代のようで、彼の役割は別の人へと彼の意思で引き継がれます。そして、彼は再び若い頃のような瞑想の日々が始まります。
ある冬の雪が降る朝に、彼は日課にもなっていた瞑想に入ります。深い瞑想状態になります。その瞬間、彼は自分を呼んでいるような声を聴きます。今まで聴いたことが無いような音の響きですが、「知っている」という感覚があります。「○○ちゃん」・・・目を覚ますと、ベッドに寝ている自分に気付き、近くに自分を呼んでいる女性がいます。瞬時に彼は自分の母親だと気付きます。しかし、まだ体が成長していないせいもあって、体が自由に動きません。
不思議な感覚。この瞬間、彼は日本で赤ちゃんとして生きている事に気付きます。その後、彼はそのまま女の子として成長し、すっかりとこの世界での生活が始まり、この時間軸での自分にフォーカスしておりチベットについては忘れています。大きくなると教育大学を出て、小学校の教師としての人生を歩みます。それと同時に、この世界の仕組みについての探求も始まり、瞑想や呼吸法などを日課として続けています。子供達との交流や教師として教えるということに彼女は誇りを持ち、自分自身の生き甲斐を十分に実感しています。
50代前半頃彼女は眠りに付き、夢を見始めます。彼女は様々な夢を今までも見てきましたが、今見ている夢は単なる光だったり幾何学だったり、ストーリー性が全くありません。単なる形だけの夢・・・というより、自分自身が見ている形の一部のような感覚です。そして、目覚めると彼女は「彼」に戻ります。たった20分の瞑想で別の時代の50年分の体験をしてきました。
彼はこの瞬間、生と死の繋がり。つまりは、生も死も存在せず、全てが繋がっているのが人生であるということを体感して知ったのです。彼の継続した探究心や様々な体験を人々とシェアしてきたことが、自ら答えを導き出しました。
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文章としてタイムラインの繋がりを表現するのが難しく駄文になってしまいましたが、この方の人間体験から見える事は、まさに継続は力なりというような言葉でしょう。探求を続けていれば、自ずと答えは導かれるものです。また、時間とは上記のストーリーのように実はあって無いようなもの。人生とは一瞬だという言葉もありますが、大きな視点から見るとまさにその通りでしょう。自分の意図を継続させることができれば、必ず「知る」事ができるものです。
また、夢とタイムラインの繋がりも考えさせられます。実は寝ている時、私たちはある種の「死」を体験しています。朝目覚める場所は私たちの本質のガイドラインによって変化します。あなたは今も実は夢を見ています。そして、様々な世界で目覚めています。同じこのタイムラインで目覚める場合、このタイムラインで何かまだイベントが残っている証です。貴重でワクワクとしたイベントが待っています。それを体験し尽くしたら、あなたはどこで目覚めるのでしょうか?
上記のような体験を自分自身で味わい自分とは誰であるか?を知るためにアカシックレコードへの意識的なアクセスは役立ちます。次回は3月に仙台と東京で行います。