日曜日、月曜日と実家の松本から両親が上京し、孫の顔を見て本日帰っていきました。松本のジジババの孫を抱っこしている姿に血筋や家系の歴史の一場面を見た感じがして何か不思議な感じがしました。こうやって血は続いていくんだなぁって。日曜日は甥っ子も初めて一人で電車を使って家まで遊びに来てくれました。この前まで、娘っ子と同じ赤ちゃんだったのに、もうお兄さん。時はどんどんと過ぎていきますね。
さてさて、本日は言葉についてです。もし、言葉がたったの一文字や二文字しかない世界だったら、この世界はとてもシンプルでいつでも満足な世界になっています。その場合、もちろん文明は進化せずに、今のような情報社会にもならず、すべてはとてもシンプルで、他者との交流も意識上でのテレパシー的な伝達手段でコミュニケーションが行われるでしょう。全てが「知っている」「分かっている」という世界。
時間の経過、文化の発展とともに、言葉の数も増え、世界は文明社会で様々な便利な道具も発明されてきました。もちろん豊かで便利な部分もありますが、その反面、不安や心配、嫉妬や執着、妬み、怒り、悲しみ、情報、概念・・・等々も同時に複雑化されてきていて、ややこしい社会構造になってきました。もちろん、今から言葉が少ない世界にいきなり戻るということは非現実的でしょうが、今の時代も自然の流れで大きな視点で見ればプログラム通り。また、言葉は今の時代とても大切。人とのコミュニケーションで言葉での直接的なやりとりは今やとても重要な要素ですし、意図を現実化させるためにも必要です。
しかし、言葉が無いシンプルさの世界を体感することは今でも可能ですし、自分らしく生きる上では大切なエッセンスだと感じています。それは自分の内側での体験。瞑想的な状態、集中をしている状態、クリエイティブになっている状態を日常の中で意識的になることです。例え、世界に言葉がたくさんあったり、情報が複雑であっても、その状態を味わっておけば、シンプルさの意識で世界と触れ合うことができるでしょう。結果的に、スムーズな人生がシンプルに展開していくように感じています。