人間は生まれながら死に向かっている。
仏教の言葉「無常」です。私たちは常に変化して、死に向かって歩んでいます。
老いや病、やがて訪れる死に対して恐れや恐怖、そして絶望。
これは全てエゴ(自我意識)の声です。
確かに、エゴの視点に立てば、死んだら終わり。だから怖い。
これは、「生」と「死」と分類して捉えている状態から来る恐怖。
個人的な臨死体験からの視点でこの「死の恐怖」を捉えると、
「生きること」と「死ぬこと」は、分類できない。
それは、質の違いがあって、実際は、紛れもない「私」(※実際は「私」さえも無いのですが)
例えるならば、あなたが雨の一粒になって海の中に落ちる状態をイメージしてみてください。
空から降っている状態が「生」
大海に落ちた状態が「死」
空から降っている状態はエゴの視点であり、私たちがこの物質的な世界を肉体を持って、他の雨粒である他者と一緒に生活している状態。
海に落ちている状態は意識や源、本質、魂の視点であり、私たちが意識の世界を肉体を持たずにいる状態。全てと融合、統合していて、他者との区別も無く、時空さえも無い。
痛み、病、老いなども一切ありません。
空から落ちている時に認識していた他の雨粒も、この状態では一緒になっている状態。つまり、他者とさえも融合している状態です。
ちなみに、蒸発することで、再び物質的な雨にもなれます。つまり、物資的世界、体は、大海(源、本質)から生み出されているということになります。
どちらも私たちが選択した結果であり、質の違いだけで、あなたはあなたです。
意識、本質の視点をエゴの視点と同時に持つ事が死への恐怖を乗り越える一つのキー。
肉体を生み出している本質の視点があると、 痛みや苦しみさえも、概念としてはあるんだけども、それを包みこむ形になります。
この視点から、「生死」「死生」というように分離せずに統合した形になります。
この状態だと、もはや恐怖がベースになっていないので、自分の体や、この物質的なシステムについて、愛おしい気持ちになります。
「命愛しむ」という状態で、老いることや肉体の変化も、一つの質として腑に落ちた形で日々の中で命を味わうことができます。
無常も貴重な体験であり、生きている醍醐味。
私たちは、死ぬために生きているのではなく、生きるために生きています。
この貴重な体験を、日々の瞬間瞬間で味わうこと、命を生きる選択は、誰もの道標です。
それは、どんな環境であっても、どんな状況であっても、一切関係ありません。
生きることが答えであり、同時に謎でもあります。
日々の中で様々な謎にチャレンジし、創造力を使って生きていくことが、死の恐怖を乗り越える一つのステップ。
今この瞬間を生きましょう。
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