意識の旅が始まる。
2000年から僕は様々なスピリチュアルの探求を通して覚醒や悟りの境地と言うものを目指していた。
そして2005年にシャーマニズムのリチュアルによって創造の源を体験し、本当の「私」を初めて体感した。
それまで、僕は覚醒や悟りという状態や真理について探求をしていた。
覚醒すれば様々な能力が開花されたり、マジシャンのように何でも欲しいものを瞬時に現したり、
そんなスーパーマンのようになるようなイメージを正直持っていた記憶がある。
その状態になるには生まれながらにして持った才能だったり、様々な修行をつまないとなれないのではないかと言うようにも思っていた。
そして、2005年の臨死体験。
あらゆるものが自分から創造されていて、全てが「私」という存在と融合していた。
過去や未来という概念も、自分の想い・衝動から生み出されていて、私の中に他者がいて、他者の中にも私がいた。
「うわぁ、騙されていた」
「みんな、この事を知っていて、僕だけが知らなかった」
「みんな、知らないふりをしているだけだった」
「誰もがすべてを知っているんだ」
そして、最終的には「無」の世界に融合していた。
何も無いんだけども、全ての「有」を生み出すものが全てあった。
「何も無いけど、全てある」
そんな言葉で表現するしかないような領域。
その瞬間
覚醒という概念は無かった。
あったのは紛れもない「私」のみだった。
私は私だった。
誰しもが生まれながらにして本当の私を知っている。
この意味で誰しもが初めから終わりまでずっと目覚めている。
生まれてからずっと私は私だった。
私は紛れもない私だった。
特別な自分になる必要は無い事が分かった。
今の自分をこの世界で純粋に表現して生きること。
それは特別なことではなくて日常を、その瞬間瞬間を、どんな環境であれどんな条件があれ自分自身をできる範囲で表現する。
この状態になっている時、誰もが「覚醒」している。
覚醒とは求めるものではなく、既に今「在る」という事を知る体験の事を指す言葉・概念であると知った体験だった。
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覚醒、悟り、ニルヴァーナ、ヨガのサマディ・・・人が本当の自分に目覚める体験には様々な概念が存在している。
2005年から始まった個人的なシャーマニックリチュアルでの臨死体験からこの覚醒について何度も体験や検証を進めてきました。
今回は個人的なその体験から覚醒について書いてみました。
例えば、覚醒や悟りの境地になると、何かスーパーマンになったりサイキッカーになったりするようなイメージがあったり、
聖者のような存在になったり、天才と呼ばれる存在になったりなど、様々な概念が存在しているように感じます。
確かに、それも一つの表現であり、人それぞれの体験であり行動。
しかし、個人的な体験から分かったこと。
いわゆる覚醒とは、特別な事ではなく、今を自分らしく生きている状態。
その瞬間、私たちは「感謝」「喜び」「歓喜」に包まれている。
ある意味、言葉にすれば、
覚醒とは「覚醒は無い事」を知る瞬間
と僕は表現をしている。